小説は神経系へのハック

去年、小説家の円城塔さんの講演会に行ったのですが、そのときに聞いた

「小説は神経系へのハック」

というフレーズが、それ以来、何度も脳内でリフレインしています。

 小説は、単にデータをそのままコピーして脳内にセーブさせるようなものではなく、
文字列を見た人の脳内に、いろいろの発火パターンを生じさせて、その人に情景を思い描かせたり、もしくはその人の意識にも上らないところでその人の神経回路に変化を生じさせてしまったり、
という「ハッキング」だ、と言っていたのだと思います。

人によっては音楽のほうがわかりやすいかもしれません・・・音楽を聴いているときに、脳内でニューロンがはじけている様子のほうが、想像しやすい・・・です。(個人の感想です。)

一見当たり前だけれど、ふだんは記号的な側面とか、五感にはたらきかける=記憶、意識にのぼる側面しか考えないようなところに、より物質的に詳細な描像として神経を出してきて、忘れがちな無意識の部分にも焦点が当たるようにしている
ってところが、ぼくにとっては、新しい視点でした。

こういう、「真理を、一見ちょっと変わった表現で表す」みたいなのが、好きなんですよね。シュールレアリスム絵画が好きなのも、同じ理由な気がします。かっこいいんですよね。

さて、神経系へのハックという見方、小説や音楽だけでなく、いろいろなものに当てはめられると思います。

例えば、語とは何か、を考えるとき、その語の意味、すなわち文法的役割や想起させる感覚を説明するのが普通な気がしますが、もう一歩進めて、神経レベルで考えてみると、さらに細かいことまで見える気がします。

語というのは、きっと、音節やら、語の操作(e.g. 連言とか)やら、物体の特徴やら・・・と関係する部位とつながっているニューロン群によって表現されているもので、ある語を受け取った時に、そういうものが発火するんだろうなという想像ができます。


例えば、
「ピザって10回言って」
「ここ(肘を指さす)の名前は?」
「ひざ!!!・・・・あっひじだわ・・・」
みたいなやつは、神経系を想像すると、理解しやすい例ですよね。まああんまりおもしろくない例ですが。


面白い例としては、語の日常用法を離れた使用に基づく病的発作であるところの哲学的問題への応用ができるんじゃないかと思います。

 

例えば、意識のメタプロブレム the meta-problem of consciousness「なぜ我々は、クオリア=私が何かを感じているという感じがあって、これは通常の物理では説明できないんだ!と、主張するのか?」に対して、こんな風に答えられると思います。

脳のどこかにクオリアの有無が随伴するような特定の神経回路の発火パターン(等の物理現象)(各種の情報統合回路のON/OFFみたいなイメージ)があって、われわれはそれをモニターして、クオリアあり!(=我あり!)と叫んでいるんだ。
そして、その発火パターンの有無は、外部刺激に対する依存性が低いので *1、人が脳の中身のことを知る以前に、「暑さがある」ではなく「暑い」「暑さを感じる」という言語表現が割り当てられ *2(c.f. 「イスがある」)、
脳の内部状態に対する詳細な観察手段や知識を持っていなかった子供や昔の人には、それ以上の説明ができなかった。 *3

すなわち、外界とは別物として存在する内部状態がある(+そしてそれは「感じる」と表現するものだ)というクオリアの存在に対する信念が獲得された。

・・・となるわけです。
必ずしも神経を思い浮かべなくてもよいような気もしますが、まあこうやって神経を思い浮かべたほうが、具体的で、考えやすいような気がします。便利ですね。

そうはいっても、常日頃から、例えば上司と議論しているときに、俺はこいつの脳をハックしてるんだ・・・って考えてたら、気味悪がられそうですけれどね。一つの視点として、ときどき発動する分には良いのかなと思います。

あ、言い忘れていましたが、このブログ、気楽に乱文を投稿していきたいので、きちんと典拠を示したり、過去の偉人に敬意を払ったりということをしないことが多くなると思います。まあ、そもそもみんな、あんまりそういうことに興味がないとは思うんですけれどね。 *4

ではでは。

*1:理由がこれだけでいいのかはかなりビミョウ。例えば、他個体からの信頼を得るため、みたいな適応的意義も考慮する必要がありそう。これも含めて、メタプロブレムついてはまた今度、もっと多角的に詳しく議論したいと思います。

*2:あれ、、、もしかして「バブみがある」みたいな表現は、脳内の現象を客観視するようになったから出現したのか?

*3:チャーマーズファンに向けた注) 現代のわれわれ大人は、先人たちが積み上げてくれた知識と技術のおかげで、脳がどんなものかを、具体的に想像することができ、この記事のような議論ができるわけです。そのおかげで?、例えばハードプロブレムについても、意識は何らかの物理現象に自然的に随伴するもので・・・という説明ができそう、と、解きほぐすことができるわけですね。それでも、クオリアが存在する!という出発点から話を始めたくなるという点については、やはり幼少期に獲得する認知システムが、たくさんの脳内部状態を「存在するもの」カテゴリーに分類して成立したということに、未だにひっぱられている、ということなんじゃないかなという気がします。

*4:とはいえ、意識する心(著=David Chalmers、訳=林 一)にだけは言及しないとさすがに罰が当たりそうなので、ここに紹介させていただきます。