おもしろい研究とは何か
前回の記事の註で生意気にも「つまらない研究」の例を挙げてみたら、その註についての反響が予想外に大きかったので、もうちょっと詳しく書いてみようと思います。
僕は高校で生物部に入ってから、生物学をいろいろ勉強するようになりました*1 。小さいころから生き物は好きだったのですが、教科書などを勉強することでさらに、機械としての生物のすごさに魅せられたのを覚えています。
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具体的に映像として想像してみてください、今この記事をスクロールしているあなたの手の中で、たくさんの小人さん*2 がごにょごにょ動いて、ナノスケールのテープ*3 に書かれた情報の翻訳作業に勤しんでいる・・・・・・。
これがあなたの手の中で、今まさにここで、起きているんですよ。
ほんとうにやばいSFだと思います。すごすぎる。
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そのまま大学に入って、まず最初のころに面白いと思っていたのは、たしかノンコーディングRNAとかだったと思います。講義かどこかで聞いた「機能未知の配列がたくさんある!未開拓の地!」みたいな割と曖昧な売り文句を鵜呑みにして、おもしろーい、と思っていたような気がします。
しかし、それも長くは続きませんでした。その後すぐに駒場の金子邦彦先生をはじめとする人々の影響を受けて、物理学者の言う「面白さ=非自明さ*4」みたいなのが、かっこよく見えてきてしまったからです。
『生命とは何か 第2版』 - 金子邦彦・著:おすすめです!生き物の研究に興味のある人はみんな読んだほうがいいと思います!
・・・あ、でも、振り返ってみれば、もともと小さいときから(当時は自覚がなかったかもしれないけれど、)「なにかを理解する(説明できなかったものが説明できるようになる)」のが、好きでした。そういう人間が価値観(好み)を明文化しようとした結果、自然な流れで「わからなさが大きければ大きいほど、わかったときのうれしさが大きい」となった、ということで、ある種の必然だったとも思います。
さて、自分語りはこれくらいにして、万人に通用する価値基準に関する論考をはじめます。
・・・・・・などと尊大なことを言えるほど、僕はもう若くありません。*5
仮に「良い研究=非自明なことの解明」と考えるとしても、全員がそれを目指してしまったら、うまくいかないような気がします。実際には、色々な好みを持つ人たちが、各々の趣味趣向に従って動くことで互いに支えあっている、というのが現実で、なおかつ、これが結構うまくいく方法なんだろうな、と思います。
例えば、生き物マニアみたいな人が分類学をやって基盤整備をしてくれたり、地味な実験を昼夜問わずやり続けることに快感を感じる変態さんが基礎的なデータを蓄積しておいてくれることで、非自明に斬りこむ研究が可能になっているはずだ、ということです。みんなちがってみんないい*6 、ですね。
そういう中で僕は、即時の報酬が欲しい性格も相まって「わりとすぐに非自明なことの解明につながる研究」がしたいんだなあ、と思っています。
今後この価値観(好み)が変わることはあるんでしょうかね・・・?楽しみです。
ではでは。
*3:mRNA
*4:「非自明さ」には、二種類あると思います。「類似例の経験不足などのためにすぐには説明できないこと」と「説明が複雑になるために短時間では説明が大変なこと」の2つです。今回の記事では特にこの区別にはこだわりません。
*5:若いころには、「こんなにつまんない研究、なんでやってるの???」とか、余裕で言ってました。ごめんなさい。
*6:「いい」とは何か?・・・一般的には、学校や親などから教わる、みんなの快楽を増す、もしくは不快を減らすようにつくられたルールに従っていること。一次的な欲求・個人の経験/視野では正しく判断できないような場合でも、歴史に学んで作られたルールに従うことで正しい判断ができる、というすごい道具。もちろん、みんなが幸せになるのが不可能だったり、みんなのためにならない悪法が紛れてたり、色々難しいことはある。
研究は趣味か仕事か
「研究者になりたいです~!」と目を輝かせていた高校生の頃のぼくに、今日のブログのような話をしたら、「アンパンマンなんていないんだよ」といわれた幼稚園児のような顔をすると思います。
大学院もやっと折り返しを過ぎたくらいのピヨピヨが何を言い出すんだ、、という感じですが、やっぱり日々研究活動をしていると、研究者特有の心理について、ちょっとずつ経験が蓄積してくるのを感じるので、現時点での所感を述べさせていただきます。
1、面倒な仕事
とある教授のお気に入りの話*1 に、
「ちょっと実験をして、自分が面白い現象を見つけたかも、と思うところで満足してしまい、それ以降、他人を説得するための証拠の積み重ねを怠ってしまう学生がときどきいるが、こんなのは趣味の研究である。(大意)」
というのがあります。
知的好奇心ドリブンで研究している人は、誰でもこうなるんじゃないかなって思います。ぼくもそういうタイプなので、耳の痛い限りです。実は当の教授ご自身も(昔は)そうだったみたいなので、少なくとも気持ちはわかってくれるのかな、と思えば、、、いや、なんでもないです。
こういうのを克服する方法としては、やっぱり、圧倒的証拠で他人を説得する快感をモチベーションにするのとかが良いんでしょうね。
あとは、自分の「わかった感」がいかに信用ならないか、ということを、一回痛い目見て学ぶとかですかね()。
2、難問の魅力
研究の価値尺度の一つとして、「非自明さ」が挙げられると思います。逆にいうと、やったこと・結果が当たり前なやつ*2 はつまらない、価値が少ない研究だ、という考え方です。
もちろん、数々のセレンディピティ()の例からもわかる通り、自明を積み重ねて非自明に行き当たることもあるので、(例えば政策を考えるときなどには)どのくらいのタイムスケールで価値を測るべきなのかとか、人間が非自明と気づかないところのほうにこそ宝の山の可能性が高いのかも、、とか、色々突っ込みどころはあります。
とはいえ、やっぱり、非自明なことを明らかにしたい、と思いますよね。*3 そういう非自明ドリブンパーソンの陥りがちなのが「自分のやっていることなんて自明なんじゃないか症候群」です。これになると、抽象度の高い言葉を組み合わせて擬似問題を創出して溺れてしまったりとか、100年先の技術を使っても到底解けない問題に魅かれて仕事が手につかなくなったりとか、重症化しがちです。
あくまで個人の感想ですが、こういう「趣味」*4 に仕事を圧迫されすぎないように、なんらかの形で自分を縛ったほうが、結果的に精神が元気になって、「趣味」も「仕事」も充実するような気がします。多少の哲学的思考力があれば、いくつかの疑似問題は薙ぎ払えるかもしれませんが、全部退治するのは大変でしょうね・・・。難しすぎる問題は見果てぬ夢、と思い込んで、いったん昼間は忘れてしまうのがいいかもしれませんね。
「好きなことで生きていく」って、こういうことだったんですね・・・(?)
今回書いてみたような気持ちの制御術は、本当に人それぞれだと思うので、ぼくと似たようなことを考えたことのある人に、ちょっとだけでも共感してもらえればいいかな・・・って感じです。
ではでは。
*1:われわれが耳タコで聞いている話ともいう
*2:各方面に波風立てないように最大限配慮して考えたつもりの例:
「遺伝子Xの発現変化の原因は、〇〇の分解や、××のリン酸化が(誰でも思いつく仮説として、)有力視されていましたが、本研究では初めて実験的に、後者が関与していることを明らかにしました!」とか。
*3:なぜかこれにはかなり個人差があるみたいですが・・・。
大学に入って学部に進学して、意外と「非自明さ」と違うところにモチベーションをもっている人が相当数いるっぽいことに、ぼくはおどろきました。人間は多様です。
*4:敢えて呼べば「趣味」、というだけで、こういうのが非生産的かどうかはよくわからないと思ってはいます。
小説は神経系へのハック
去年、小説家の円城塔さんの講演会に行ったのですが、そのときに聞いた
「小説は神経系へのハック」
というフレーズが、それ以来、何度も脳内でリフレインしています。
それはなぜかというと、小説は神経系へのハックなので、意識にのぼるものを最適化したところで最適とは限らない、ということなのではないか、と。
— EnJoe140で短編中 (@EnJoeToh) December 1, 2018
小説は、単にデータをそのままコピーして脳内にセーブさせるようなものではなく、
文字列を見た人の脳内に、いろいろの発火パターンを生じさせて、その人に情景を思い描かせたり、もしくはその人の意識にも上らないところでその人の神経回路に変化を生じさせてしまったり、
という「ハッキング」だ、と言っていたのだと思います。
人によっては音楽のほうがわかりやすいかもしれません・・・音楽を聴いているときに、脳内でニューロンがはじけている様子のほうが、想像しやすい・・・です。(個人の感想です。)
一見当たり前だけれど、ふだんは記号的な側面とか、五感にはたらきかける=記憶、意識にのぼる側面しか考えないようなところに、より物質的に詳細な描像として神経を出してきて、忘れがちな無意識の部分にも焦点が当たるようにしている
ってところが、ぼくにとっては、新しい視点でした。
こういう、「真理を、一見ちょっと変わった表現で表す」みたいなのが、好きなんですよね。シュールレアリスム絵画が好きなのも、同じ理由な気がします。かっこいいんですよね。
さて、神経系へのハックという見方、小説や音楽だけでなく、いろいろなものに当てはめられると思います。
例えば、語とは何か、を考えるとき、その語の意味、すなわち文法的役割や想起させる感覚を説明するのが普通な気がしますが、もう一歩進めて、神経レベルで考えてみると、さらに細かいことまで見える気がします。
語というのは、きっと、音節やら、語の操作(e.g. 連言とか)やら、物体の特徴やら・・・と関係する部位とつながっているニューロン群によって表現されているもので、ある語を受け取った時に、そういうものが発火するんだろうなという想像ができます。
例えば、
「ピザって10回言って」
「ここ(肘を指さす)の名前は?」
「ひざ!!!・・・・あっひじだわ・・・」
みたいなやつは、神経系を想像すると、理解しやすい例ですよね。まああんまりおもしろくない例ですが。
面白い例としては、語の日常用法を離れた使用に基づく病的発作であるところの哲学的問題への応用ができるんじゃないかと思います。
例えば、意識のメタプロブレム the meta-problem of consciousness「なぜ我々は、クオリア=私が何かを感じているという感じがあって、これは通常の物理では説明できないんだ!と、主張するのか?」に対して、こんな風に答えられると思います。
脳のどこかにクオリアの有無が随伴するような特定の神経回路の発火パターン(等の物理現象)(各種の情報統合回路のON/OFFみたいなイメージ)があって、われわれはそれをモニターして、クオリアあり!(=我あり!)と叫んでいるんだ。
そして、その発火パターンの有無は、外部刺激に対する依存性が低いので *1、人が脳の中身のことを知る以前に、「暑さがある」ではなく「暑い」「暑さを感じる」という言語表現が割り当てられ *2(c.f. 「イスがある」)、
脳の内部状態に対する詳細な観察手段や知識を持っていなかった子供や昔の人には、それ以上の説明ができなかった。 *3
すなわち、外界とは別物として存在する内部状態がある(+そしてそれは「感じる」と表現するものだ)というクオリアの存在に対する信念が獲得された。
・・・となるわけです。
必ずしも神経を思い浮かべなくてもよいような気もしますが、まあこうやって神経を思い浮かべたほうが、具体的で、考えやすいような気がします。便利ですね。
そうはいっても、常日頃から、例えば上司と議論しているときに、俺はこいつの脳をハックしてるんだ・・・って考えてたら、気味悪がられそうですけれどね。一つの視点として、ときどき発動する分には良いのかなと思います。
あ、言い忘れていましたが、このブログ、気楽に乱文を投稿していきたいので、きちんと典拠を示したり、過去の偉人に敬意を払ったりということをしないことが多くなると思います。まあ、そもそもみんな、あんまりそういうことに興味がないとは思うんですけれどね。 *4
ではでは。
*1:理由がこれだけでいいのかはかなりビミョウ。例えば、他個体からの信頼を得るため、みたいな適応的意義も考慮する必要がありそう。これも含めて、メタプロブレムついてはまた今度、もっと多角的に詳しく議論したいと思います。
*2:あれ、、、もしかして「バブみがある」みたいな表現は、脳内の現象を客観視するようになったから出現したのか?
*3:(チャーマーズファンに向けた注) 現代のわれわれ大人は、先人たちが積み上げてくれた知識と技術のおかげで、脳がどんなものかを、具体的に想像することができ、この記事のような議論ができるわけです。そのおかげで?、例えばハードプロブレムについても、意識は何らかの物理現象に自然的に随伴するもので・・・という説明ができそう、と、解きほぐすことができるわけですね。それでも、クオリアが存在する!という出発点から話を始めたくなるという点については、やはり幼少期に獲得する認知システムが、たくさんの脳内部状態を「存在するもの」カテゴリーに分類して成立したということに、未だにひっぱられている、ということなんじゃないかなという気がします。
*4:とはいえ、意識する心(著=David Chalmers、訳=林 一)にだけは言及しないとさすがに罰が当たりそうなので、ここに紹介させていただきます。
アンパンマン
なんか、普段考えていることを、文字にして残したり、ほかの人に見てもらったりしたくなったので、ブログ始めました。
まずは、自己紹介がてら、記憶の残っている範囲で、ぼくの生まれてからこれまでの、世界観の変遷を振り返ってみます。
幼稚園以前に関しては、ほとんど記憶がありません。
数少ない記憶の一つに、ぼくが母親に
「アンパンマンってほんとうはいないものだけど・・・」
みたいなことを言って、
「他の子はまだ信じているんだから、そういうこと、おともだちにいっちゃだめだよ」
と、注意されたという思い出があります。
とんだマセガキですね。
ちょっと似た話として、小学校の頃の僕の鋭い質問として有名なのが、
「他の動物は交尾して子供ができるのに、どうしてヒトだけは、お互いのことを好きになっただけで子供ができるの?」
というやつですね。
これを聞いた両親は戸惑いながらも、ちゃんと説明してくれたと記憶しています。
そのまま中学生になって、真理の追及を続けた結果、ぼくには「真友=真の友達」がいないのではないか、みたいなことで思い悩んだりもしました。
たしか、1から100まで全部完全に理解・共有できないと、ほんとうのともだちじゃないんじゃないか、、と担任の先生に相談していましたね。
そして、中学校の卒業文集がコチラ、
倫理だとか「生きていく意味」だとかは道具でしかない!という見方を手に入れて、なんともすがすがしい中学生ですね。
ほかのみんなが普通に具体的な中学校での思い出を語って友達にカンシャしている中でこんなのを書いたのは、
「中学3年時点での自分の思想の到達点を、みんなに見せびらかしたい!」
みたいな気持ちがあったからだったのを覚えています。
このブログを書いている今の僕と大して変わらないですね。
さてさて、ここらでまあ良い分量になったと思うので、高校以降については、また何かの機会にします。
ではでは。