研究は趣味か仕事か

「研究者になりたいです~!」と目を輝かせていた高校生の頃のぼくに、今日のブログのような話をしたら、「アンパンマンなんていないんだよ」といわれた幼稚園児のような顔をすると思います。

大学院もやっと折り返しを過ぎたくらいのピヨピヨが何を言い出すんだ、、という感じですが、やっぱり日々研究活動をしていると、研究者特有の心理について、ちょっとずつ経験が蓄積してくるのを感じるので、現時点での所感を述べさせていただきます。

1、面倒な仕事
とある教授のお気に入りの話*1 に、
「ちょっと実験をして、自分が面白い現象を見つけたかも、と思うところで満足してしまい、それ以降、他人を説得するための証拠の積み重ねを怠ってしまう学生がときどきいるが、こんなのは趣味の研究である。(大意)」
というのがあります。

知的好奇心ドリブンで研究している人は、誰でもこうなるんじゃないかなって思います。ぼくもそういうタイプなので、耳の痛い限りです。実は当の教授ご自身も(昔は)そうだったみたいなので、少なくとも気持ちはわかってくれるのかな、と思えば、、、いや、なんでもないです。

こういうのを克服する方法としては、やっぱり、圧倒的証拠で他人を説得する快感をモチベーションにするのとかが良いんでしょうね。
あとは、自分の「わかった感」がいかに信用ならないか、ということを、一回痛い目見て学ぶとかですかね()。

2、難問の魅力
研究の価値尺度の一つとして、「非自明さ」が挙げられると思います。逆にいうと、やったこと・結果が当たり前なやつ*2 はつまらない、価値が少ない研究だ、という考え方です。

もちろん、数々のセレンディピティ()の例からもわかる通り、自明を積み重ねて非自明に行き当たることもあるので、(例えば政策を考えるときなどには)どのくらいのタイムスケールで価値を測るべきなのかとか、人間が非自明と気づかないところのほうにこそ宝の山の可能性が高いのかも、、とか、色々突っ込みどころはあります。

とはいえ、やっぱり、非自明なことを明らかにしたい、と思いますよね。*3 そういう非自明ドリブンパーソンの陥りがちなのが「自分のやっていることなんて自明なんじゃないか症候群」です。これになると、抽象度の高い言葉を組み合わせて擬似問題を創出して溺れてしまったりとか、100年先の技術を使っても到底解けない問題に魅かれて仕事が手につかなくなったりとか、重症化しがちです。

あくまで個人の感想ですが、こういう「趣味」*4 に仕事を圧迫されすぎないように、なんらかの形で自分を縛ったほうが、結果的に精神が元気になって、「趣味」も「仕事」も充実するような気がします。多少の哲学的思考力があれば、いくつかの疑似問題は薙ぎ払えるかもしれませんが、全部退治するのは大変でしょうね・・・。難しすぎる問題は見果てぬ夢、と思い込んで、いったん昼間は忘れてしまうのがいいかもしれませんね。

 

「好きなことで生きていく」って、こういうことだったんですね・・・(?)

 

今回書いてみたような気持ちの制御術は、本当に人それぞれだと思うので、ぼくと似たようなことを考えたことのある人に、ちょっとだけでも共感してもらえればいいかな・・・って感じです。

ではでは。

*1:われわれが耳タコで聞いている話ともいう

*2:各方面に波風立てないように最大限配慮して考えたつもりの例:
「遺伝子Xの発現変化の原因は、〇〇の分解や、××のリン酸化が(誰でも思いつく仮説として、)有力視されていましたが、本研究では初めて実験的に、後者が関与していることを明らかにしました!」とか。

*3:なぜかこれにはかなり個人差があるみたいですが・・・。
大学に入って学部に進学して、意外と「非自明さ」と違うところにモチベーションをもっている人が相当数いるっぽいことに、ぼくはおどろきました。人間は多様です。

*4:敢えて呼べば「趣味」、というだけで、こういうのが非生産的かどうかはよくわからないと思ってはいます。